「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」第5話の感想|“舞台の幕が上がるその前に見えたもの”【ネタバレなし】

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初日、幕開けの瞬間

「夏の夜の夢」公演初日が始まり、舞台監督・伴工作(野間口徹さん)のスケジュール説明から場面が切り替わる流れが、まるで客席側の視点に立ったかのようでワクワクした。
劇団クベシアターの旗揚げ宣言をした久部三成(菅田将暉さん)のあの声、劇場に響く歓声と一緒に自分もその場にいるような気分になった。
ただ、その熱気の裏にある“緊張”や“何か起きる予感”という陰りが、静かに心をざわつかせていた。

お祓いと居場所のズレ

八分神社から神主・江頭論平(坂東彌十郎さん)と巫女・江頭樹里(浜辺美波さん)が劇場に入ってくるシーンが、舞台の神聖さと現実の雑踏とが交錯していて印象的だった。
その前を通り過ぎる倖田リカ(二階堂ふみさん)を見て論平さんがにやける、その瞬間だけで「この世界、やっぱり普通じゃない」と思った。
舞台上に設けられた祭壇、お祓いの儀式。演劇の「幕の内側」にあるものが描かれたような静けさとざわめきが同居していて、心が少しヒリヒリした。

誰の楽屋なのか、誰の舞台なのか

久部くんが劇場のステージをじっと見つめる場面が胸に刺さった。夢を掲げてその場に立つ姿と、その直前の恐怖の狭間で揺れているようで。
“楽屋”という言葉が持つ意味が拡張されて、「舞台に出る前の裏側=誰にも見せない顔」みたいに感じられて、物語の底に流れる人間関係が重くのしかかる。
そして、劇場という“場所”が、ただの建物じゃないということを、このエピソードで強く思わせられた。

目撃者か演者か、その境界線

旗揚げ宣言からお祓いまで、どの場面にも「誰かが見ている/見られている」という意識があって、観ていて少し身動きが取れない。
舞台の幕が上がる直前の高揚と不安、そしてその裏にある“居場所”を探す人たちの気配。第5話は、それらが一気に露わになった回だった。
このあと、誰が主役になるのかというよりも、「この舞台で誰がどんな役を演じて、どんな居場所を見つけるのか」が気になって仕方ない。

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